運動会って誰のもの?

運動会前、憂鬱な時期

 

自宅前の小さな児童公園には、近くの保育園の子どもたちが毎日のように遊びに来る。

 

自宅リビングにいると聞こえてくる、子どもの遊ぶ声が好き。いつまでも聞いていたい幸せな音だ。

 

ただ、憂鬱になる時期がある。運動会前。夏休みが明けると、あっちでもこっちでも練習が始まり「あー、今年も始まった……」と。

 

私は未就学の子が、一糸乱れぬお遊戯を披露する立派な運動会が苦手だ。いや、嫌いだ。

 

公園では日々保育者が声を張り上げ、ときには怒声が響く。緊張しながら、先生の指示通りに必死に動く子どもの姿を目にするたび、浮かんでくる疑問。

 

「だれのための運動会? 保護者?保育士?」

 

でも、運動会で、立派なお遊戯をみて涙する親御さんを見ていると、こうした保護者の期待に応えるために、保育者はがんばっているんだな、と納得もする。

 

裏山での竹のぼりが最終演目の保育園

 

人の育ちを支える保育者は、先を見通して環境を整え、子どもの行為を広げ、多様な学びと世界とのかかわりをもたらす、プロフェッショナルなスキルと深い洞察力が求められるお仕事だ。

 

私の小学6年、1年の男児ともに、保育者の存在に親も支えられた。

 

なにより、「あなたが生きる世界には、信頼できる大人がたくさんいるよ」と伝えることができた、かけがえのない時間だった。

 

だからこそ、親と保育者は、子どもの育ちを支える両輪となり、保育の理念を共有する必要がある。

 

次男が通っていた保育園では、立派なお遊戯も、完成度の高い体操もない。ぶっつけで楽しめる親子競技や、運動遊びが中心。お遊戯もあるにはあるけれど、やらない子がいたり、バラバラなゆるーい感じがたまらなく愛おしい。

 

そして、「今年の運動会はどうするか」を子ども自身で話し合う。「発表会」も同じ。

 

そのプロセスをなにより大切にし、保育者は見守る。

 

多数決はせずに、少数の意見を汲みとり、時間をかけてまとめていく力は、穏便に物事を進めること、効率を重視することを優先した大人社会の暗黙のルールを知らないからこその、子どもの力だと、感嘆する。

 

運動会の最終演目は、普段遊んでいる裏山の竹林に移動して、年長児による「竹登り」。竹林のなかでどの竹を登るかを決めるところから、子どもは日々悩む。

 

登りたい竹が友達とかぶったりもして、ケンカもする。その小さな葛藤、選択、決断を積み重ねていく日々が、人生を自分の脚で歩いていく土台となる。

 

その日、竹をどこまでも登って行き、どや顔で私を見下ろしている姿を見てそう感じた。

 

私も、第1子の時は、毎日保育者から今日の出来栄えに点数をつけられるお遊戯を、目を細めながら見ていたし、感動もした。

 

こうした保育、行事のありかたがあたりまえだと思ってもいた。私自身が、「なにかができるようになること」を子育ての物差しにしていたのだと思う。

 

違和感をやり過ごさずに

 

でも、どこかに違和感があった。

 

この違和感にもやもやしながら、6年。なんだかおかしいんだよなあ、と考えて、探して、歩いていたら、「大人の声が聞こえない保育園」に出会えた。

 

行事前もキリキリした様子はなかったし、なによりも優先させていたのは、普段の遊び、子どもが主体的にかかわるためのプロセスだった。

 

子育てにひとつの答えはないし、色々な保育理念があっていい。子どもが主体となって練り上げ、運動会を完成させていく園もあるだろう。

 

息子は、そんな大人に指示されない保育園でのびのび育ったから、小学校に入学した時、少しだけ壁にぶつかった。

 

「のびのび育てたいけれど、小学校に入ってからが心配」。よく聞く声だ。

 

小学一年生を終えようとしている今、まだちょいちょい壁にぶつかっている息子を見ていて、つらくなる時もある。

 

そんな時は、あの日、竹を裸足ですいすいと登り、私を満足げな表情で見下ろしていた息子の顔、お迎えにいっても眼中なしで、「子どもだけの話し合い」を続けていた様子を思い出す。

 

「一度人生を自分の選択で選び取っていく自由を知った子は、自由を忘れない」。

 

そう、あなたなら大丈夫。

 

理事:大武美緒子

 

敬愛する保育者が贈ってくれたこの言葉をよりどころに、日々のんびりとではあるが、初等教育の現場への「違和感」と「子どもの今」に向き合っている。